人は賢くなるために努力すべしと言われる。
勉学に励み、人生経験を積み、書籍を読む。
そうして努力し続けた者だけが賢さを手に入れることができる。
それはさも崇高で潤沢で憧れの対象のように語られているが本当にそうなのであろうか。
見出し
- 賢いほうが人生に有利なのか
- 賢いと面倒なことに気付く
- 数が多ければ配慮される
- 数が少なくても配慮される
- 愚かさ + 優遇 = 賢さ − 必要な労力?
- 賢くなることの意味は「賢くなるべきかを理解できる」
賢いほうが人生に有利なのか
賢い、とは人間性能が高いことを意味し、それは豊潤な人生に役立つのだと思われがちだ。
怠惰を貪る者より勉学に励む者のほうがすばらしい、と皆は無根拠に考えているのではないだろうか。
現状に甘んじ、向上心を持たないよりも、将来のために自己研鑽するほうがいい、と。
だがちょっと待ってほしい。
研鑽を積むことで本当に人生は好転するのだろうか。
賢くなれば良い人生を送れるという根拠はなんだろう。
賢いことは確かに能力が高いことを意味する。
だが能力が高いからといって良い人生を送れる根拠にはならないだろう。
「ガリ勉」という勉強ができる人を揶揄する単語もあるぐらいだ。
知識自慢だとか偉ぶっているだとか賢い人に対していくらでも揶揄できるし、揶揄される。
いくら能力が高くてもそれで孤立するようでは意味がない。
僻みや妬みを無視するにしても賢いことでフリになる場面は少なからずある。
賢いと面倒なことに気付く
賢いと、日本の社会問題がどうとか恵まれない子供達がどうとか、という日常生活を送るに当たって非常にどうでもいい問題に着目してしまう傾向にある。
そこまでスケールを大きくしなくても、それまで完全に善意でやっていたことを客観的・多角的に見てしまい、自分は他人に迷惑をかけているのかもしれない可能性に気付いてしまう。
愚かな人は電車で老人に席を譲った程度のことで己を善人だと買いかぶる。
もちろん席をゆずる行為自体は善行であるし、譲らない人よりかは相対的に善人ではあるのは認める。
だがその行為は金銭的価値に換算すればせいぜいが数百円程度の価値だ。
他人にために何かをするのが良いことだとするならば、その辺のヤンキーが恋人に1万円のプレゼントをする、というだけの行為で彼は善人だと見なされることになる。
自分を善人だと思っている人は本当に自分を客観的に見られているか確かめるべきだ。
良いことをした時にプラスの評価をし、悪いことをした時に「まあいいか」で済ませているならそりゃ善人だと思い込める。
友達から借りた金を返さなかったことは?上司や友達の陰口を言ったことは?
深夜にアパートで、あるいは飲食店など公共の場所で友人と大声で騒いだことは?
…違法な手段で漫画(特に同人誌)や音楽、テレビ番組を見聞きしたことは?
善悪というものを相対的に定義するのであれば世の中の8割の人間は「善人でも悪人でもない人」だ。
そして1割が善人。1割が悪人。
で、結構な割合の人間は自分を善人だと思ってる。
なぜ自分が「自分を善人だと思ってる人」の中で本当の善人だと無根拠に思えるのか。
数が多ければ配慮される
愚かである、というのは衆愚、大衆たる、ということだ。
だが衆愚は衆愚ゆえに保護されなければならない。
数の暴力という奴だ。多くの人が困るのであればそれだけで配慮の対象になる。
大企業が潰れそうになったら国が支援して潰れないようにするのと同じだ。
多少公平性に欠けてようが大惨事を防ぐためならば何をしてもよい。
マルチ商法なんて分かりやすく稼げないものが禁止にされたのも、
投資案件の元本保証(100%損しないという保証)が法的に禁止されたのも、
頭の悪い人が引っかかるから、というだけでしかない。
それで良質な取引も禁止されてどこかが割を食おうが知ったことではない。
数が少なくても配慮される
自分に何のメリットもなくとも他人に迷惑をかけて正義ヅラをするのが愚かな人だ。
卑近な例を挙げよう。私の友人がバイト先で遭遇した出来事だ。
その系列店はポイントカードを発行し始めて1年(2年だったかも)が経過し、ポイントが初めて失効した。
それ以降、普段1日800件のクレームだったのがある男性客が一人で1000件クレーム入れるようになった。
「詐欺師!」「くたばれ」「訴えてやる!」
一言クレームを入れて即電話を切ることもあれば気が済むまで暴言を吐き散らすこともある。
営業妨害で訴えようにも通常のクレームと区別がつかないほど大量の電話が来ない限り訴えられないらしく、警察が動かない 。
その一方であるおばあさんは10万円ほどのポイントが失効したにも関わらず、
「あら、期限切れなの?残念ねえ…」
と、電話を切ったという。
なお件の男性が失効したポイントはたかが30円ほどであったことを記しておく。
このように愚かな人というのは怒りを制御できず、他人に責任を押しつけ、己の非を認めない、いや、理解できない。
なぜそんなことをするのかと聞かれたら「許せないから」というに違いない。
これほどまでに非合理的な人間がいるだろうか。
だが、店側はこのようなバカを軽んじることは出来ないのだ。
なぜなら彼らは30円のために1週間を無駄にできる人なのだ。聞いた話のニュアンスからおそらく1週間以上だろう、と思っているがもしかしたら1ヶ月も無駄にし続けたのかもしれない。
こんな人間を無下に扱えば人生を賭して誹謗中傷を行うことは想像に難くない。
友人に嘘八百を言いふらし、レビューに星1つを付け、本社に怒鳴りつけにくる。
そんな人、丁寧に扱うに決まっている。
丁寧に平謝りをして嵐が過ぎ去るのを待つに決まっている。
そうして愚かな男は好きなだけ鬱憤を晴らすことができるのだ。
かくして愚かな人は愚かであるゆえに優遇される。
愚かさ + 優遇 = 賢さ − 必要な労力?
以上の理由により愚かである、というのは決して不遇ではない。
むしろ正しくリアルを理解する能力を欠いているため説得の余地がない、譲歩される存在である。
愚かでいるのはで賢い選択なのだ。(考えて選んだ選択肢でないにしても!)
無論、賢いというのも悪い選択ではない。賢さによって多くの選択肢を吟味、実践し、豊富な人生経験を積むことができるだろう。いわゆる文化資産というものだ。
だが賢さのためには膨大な労力を要する。
本当に賢さを得る意味はその労力に見合うものだろうか?
賢くなることの意味は「賢くなるべきかを理解できる」
以上では賢くなるのはそのメリットに見合うだけのコストなのか、と疑念を挙げた。
だが人は愚かであるべきだ、という結論にはしたくない。
ここで一つ、賢いことの重要なメリットを挙げよう。
それは「愚かであるべきか賢くあるべきかを理解できる」ことだ。
つまり愚かな人は賢いフリができないが、賢い人は必要なら愚かなフリができるのだ。
賢い方がいい人生を送れる保証なぞなにもないが、賢い方が損をすると理解してから頭わるわるな生き方を始めても遅くはない。(無駄な労力を費やしたことにはなるだろうが。)
この記事が正しい根拠なんか何も無い。本当は賢い方が圧倒的に有利なのかも知れない。でも真実を知るためには賢くなるしか無い。
人生を「設計」するためには賢さが必要だ。
賢いことのメリットは人生のリスクリターンを操作できることなのだ。
賢ければローリスクローリターンな人生を選べるし、ハイリスクハイリターンの人生も選べる。
愚かなままなのは賢い選択かも知れないが、それは天から与えられた運命に盲目的に従う、機械のような生活だろう。
機械のような生活だとしても不利じゃない、と主張したのがこの記事ではあるが、やはり私は賢さを求めて、自由を求めて生きていたい。
…あ、今の私は平均よりかは賢いと思うけどそんなにだと思ってます。