人間の生きる意味・目的・理由とは何だろうか
人間の生きる目的というのも皆さんは一度は考えてみたことがあるだろう。
本ブログの基礎中の基礎として人間の生きる目的(=意味,理由)を定義したいと思う。
まず前提として、生きる目的というのは全ての人間で同じであるとする。
同じ人間なのだから同じ目的で生まれるはず、というのはやや早計ではあるのだが、そもそも一定の状況下でしか適用できないような特殊な内容では意味がなく、一般的・普遍的な内容を求めているのでそういうことにしておく。
また、人間に生きる意味も何もないという考えはしないことにする。
ある意味—––——全てに説明が付き、矛盾が発生しないという意味で————それは究極的に正しい考えなのだろうが、それは発展させようのない非生産的な考えなので無視することにする。
また「善」「悪」の定義は「善」とは何かを参照
そして、生きる理由は一つである、とする。
別に二つ以上の項目になっても良いがそれなら何故二つ以上有るかを一つの理由で説明できるはずなので一つの項目で生きる理由は説明できるはずだ。
人間はただ生きているだけで意味があるのだろうか
「人間は生きているだけで価値があり平等である」の価値のモデルは2通りある。
①生まれた時に価値が生まれ死ぬ時にその価値が消える
非常に一般的な(と自分が勝手に思っている)考えである。
これは真の意味で「人間の生きる意味は生きることそのものである」とするモデルだ。
生存本能を重視する考え方で、ある時点で価値を最大化するためには人口を多くすれば良い。
但し上の記事で示した通り全ての人間の価値を平等にすることはできない。平等にすると矛盾が生じる。殺人者を殺すことによって人口が相対的に増える状況を作り出せるのだから全ての人が平等であると言うのはあり得ない。なのでこれは人間が平等なのではなく人間の寿命が平等と言うことになる。
つまり殺人者にも価値があるにも関わらず殺人者を殺すことがなぜ肯定されるか(肯定される理由は記事参照)と言うと、それにより人口(=寿命=価値)が多くなるから、と説明できるようになる。
これにより①は無矛盾になる。「人間の生きる意味は長く生きること」となり「人間にとっての善(=価値を増やす行為)とは自他を長く生かすこと」となる。
但しこの価値観には問題がある。それは人を殺すことを寿命を減らすから悪だというのと同様に、人を生むことを善とすることである。
これの何が問題かと思われるかもしれないので具体例を出す。
日本で一生独身のまま生涯を終える人の価値を1とする。そして合計特殊出生率*1が2以上の国で子供を2人産んだ人の価値を考える。その2人は平均2人以上の子を産み、産まれた子は平均で2人以上の子を産み…と無限に続く。よってその人は無限の寿命を生み出すことになるのでその価値は無限になる。
…極端な話、子供を身籠った人が1人殺されるより子供を産む気のない人を全員殺した方が良いという価値観なのである。
さらに付け加えていうなら子供を産まない人より一度産んで殺した人の方がマシになったり明らかにおかしい現象が起こるが詳しくは省略する。
当然この考え方は棄却する。
そもそもこの手の考え方は生活を豊かにするより世界中の人間が動物みたいに貪り合うのが最善という価値観なので棄却も止むなし。
この問題点を解決した考え方が次の②である。
②生まれた時に価値は産まないが殺される時に負の価値が生まれる
これも(たぶん)一般的な考えその2。
これは人間を産むことを善とも悪ともしないが殺すなど寿命を縮める行為は悪であるという考え方だ。
これは「人間の尊厳」を重視した考えで、「人間は生まれてもどうでもいいが殺してはいけない」と言う考え方である。
当然これは①の問題点を解決していて、独身者の人権が剥奪されずに済む…のだが、今度は逆の問題が発生する。
そもそも子供を産まなければ寿命の縮まりようがないのだから産まない方が良いことになるのだ。
産んだ子供が殺されるかどうかは分からないが産まなきゃ絶対殺されないので安牌である。よって一転して子供を産むことが悪になってしまう。
「反出生主義」(人間はどうせ不幸になるだけだから初めから産まない方が良いという主義)という言葉を全否定はしないが流石にそれを人間の生きる意味にはできない。というかこれだと人間の生きる意味が消失する。それどころか「人類の目的は絶滅すること・子供を産まないこと」とか訳のわからんことになる。結局人間の生きる意味が見いだせない。
当然却下。
よって人間はただ生きているだけでは意味がない。
社会に貢献することだろうか。
自分が社会に出て働いているところを想像してみる。それが自分の生きる意味なのだろうか。つまり自分は社畜のように働くことで生きる意味を得られるのだろうか。それは考えにくい、想像できない。が、もしかしたらこの世は残酷で人間の生きる意味が働くことなのかもしれない。検討してみよう。
仮に人間の生きる意味が働くことだとしよう。すると人間の目的はより社会に貢献することとなり、全ての人間は働かなければ意味がない事になる。全ての人間が馬車馬の様に働くことで社会は活発になり素晴らしいものになりました。めでたしめでたし
…とはならないだろう。
社会ってのは人間の集合体だ。社会のために人間を犠牲にするのは明らかに矛盾している。社会が豊かになっても個人が貧しけりゃ意味が無い。もちろん現実では長く働くこと成果が出るというわけではないが、仮に人間が長く働くほど成果が出るような肉体構造になっていたり、本当に長く働けば働くほど成果が出るような仕事ならば24時間働くことが認められるかといえば否だ。
加えて、働かなければ意味がないのなら、普通の大学生が交通事故に遭って死んだらその人生は意味がないことになる。実はこの文は明らかに矛盾してるとは言い難いが…*2
以上より人間の生きる目的は社会に貢献することではない。
人間の生きる目的は社会に貢献することではない。なぜなら社会が人間のためにあるのであって人間が社会のためにあるのでは無いからだ。そもそも10000年前は社会なんて無くても生きていけた。
つまり社会という大きな単位で考えたから失敗したのだ。だから一個人の立場でどのような人生が良いかを考えるべきだ。
つまり「自分がどんな人生を送りたいか」を考えればいい。
するとどんな人生を送りたいにせよ根本的な一つの目標が浮かび上がってくる。
人間の生きる意味・目的・理由は自分自身が幸福であることである
これしかない。 誰が何の為に何をするにしろ、最終的に得られるのが自身の幸福である以上はこれしかありえない。
人生は幸福であればあるほど意味がある。
これが最も自然な考えであり、最も現実に即し、最も良い人生を送れるに違いない結論である。
自分が幸福になるためなら他人を不幸にしてもいいのか、と言われるのが目に見えているが別に他人を不幸にしてもいい。他人はそれを嫌がって自分を逮捕させたり断絶したりするだろう。他人も当然幸福になりたいのだから他人にとって自分は負の価値を持つ存在=悪になるだろう。まあそれを承知の上で他人を不幸にするのなら勝手にやればいい。もちろん私も幸福になりたいので自分の身勝手を糾弾する立場だが。
一見自分勝手な考えだがそもそも人間の生きる意味を他の人に定義される方がおかしい。なぜ生きる意味を他の人に決めれられなければならないのかを説明できる有力な考えはない。だからこの考えが最も自然である。
上の記事で書いたが人間はデフォルトで自分が心地よい感情を抱くように行動する。
たとえ他人に幸せになって欲しいと思ったとしてもそれは自分が幸せになるためである。
言い換えれば「人は自分が幸福になるように行動する。」
すなわち現実に即している。
この考え方で言えば社会とは各々を幸福にするためにあると言っていい。
そして重要なのが「個人の人生の意味が幸福」なら「人類の目標は人類の幸福総量」になることである。つまり他人を幸福にすることが善なのではなく、自分を含めてより幸福になることが善なのである。いくら友達を幸福にしてあげようがそれ以上に自分が不幸になっていたらそれは善ではないのだ。だから社会に貢献するための過剰な自己犠牲は善ではないのだ。逆に言えばぶっちゃけ他人を不幸にしようがそれ以上に自分が幸福になっていればいいのだ。そうすれば人類は幸福になれる。
まとめ
・生きる理由は自分が幸福になること
・善とは人類の幸福総量を上げること
・別に他人に迷惑かけてもいいけど自己責任