以下のようなサイトを見かけた。
独りで笑う権利が奪われることに納得がいきません。 -私は、一人でよく- その他(悩み相談・人生相談) | 教えて!goo
私は、一人でよく笑います(中略)
「あはははは!」と、笑います。
それを、「周りから見ていると何で笑ってるのか判らない、しんどい」
という趣旨で店主やマスター等から注意されるのですが、(中略)だったら、2人で来ている客は声を出して笑っていいの?、
独りだったら「声を出して笑う権利」が奪われて、二人だったら与えられるの?、
周りと関わりが無くて、友人が居ない人間は、「外で声を出して笑う権利」さえ貰えないの?
これは論理的に明らかに正しい。
公共の場所で複数人で笑うのは問題ない。声量によってはうるさいなと思う程度で別に全く迷惑にならない。これは「公共の場所で笑う権利がある」ということだ。だから公共の場所で1人で笑うのも論理的に問題ないのは明らかだ。
まあ、公共の場所で言われるならともかく店で店主に言われる分には「店が客を選ぶ権利」の関係でブラックリスト入りされても文句は言えない、と言うのも正論ではあるが。
道徳的にもそんなに間違っていない。(なお、ここでは「道徳的に正しい」は「総幸福量が増加するので正しい」の意味であり倫理とは関係が無い。)
別に1人で笑っていても周りが不気味に思うだけで別に誰も不幸になるわけではないだろう。むしろ話の種になるぐらいなので問題ない。
このケースは感情論によって個人の権利が阻害された例だろう。まあこれは1人で笑う権利があって良いという結論でいい。
上の例は論理的に正しい結論と道徳的に正しい結論が一致したケースだが(異論は認める)、一致しないケースもある。
それが「キラキラネーム(DQNネーム)を認めるかどうか。」という問題だ。つまり変な名前をつける親を許容するかどうかの問題だ。
論理的には変な名前をつける親は明らかに認められる。
日本人と外国人の名前が全く異なるように、あるいは江戸時代の名前が現代に居たら違和感を感じるように、変かどうかの判断は極めて主観的で環境・文化に依存するものだ。極論、数十年後にキラキラネームの人ばかりになったら普通の名前の人の方が変だ、となりかねない。そうなったら普通の名前を付けた親が許容されなくなるのか、というとそんな訳はない。
そもそも「キラキラネーム」と呼称されるほど社会問題になっている時点で、現代の若者にとってキラキラネームは大して変な名前では無い。
昭和の時代にも変な名前はあったが数が少なかった為に問題にならなかっただけだ。なぜ数が少なかったかといえばその時代に生きた日本人が皆同じようなネーミングの感性を持っていたからだ。だから変な名前を付けるのは世間知らずで常識偏差値が30を下回る人か変人偏差値が70を超えるような人だけだったのだ。*2
もちろんそれでも感性は少しづつ変わっていくものだから江戸時代から昭和にかけては緩やかにネーミングセンスが移り変わっていったのだ。つまり150年かければネーミングセンスは一変する。
じゃあ何故今キラキラネームが増えているかといえば、もう平成が始まってから150年が経過しているからだ。
といっても昭和での時間の早さに換算して、ではあるが。
平成が始まってからはインターネットを代表に時間の密度が濃くなっている。収穫加速の法則と呼ぶらしいが、テクノロジーは指数関数的に進化するのだ。つまり昭和が150年続いたのと同じ変化が平成の30年(どころか20年ほど)で起こってしまったわけだ。
そのせいで若者と老人で感性に大幅なズレが生じている。だから変な名前を付ける人のボーダーが常識偏差値が45を下回る人か変人偏差値が60を超えるような人までに緩くなってしまったのだ。
つまりキラキラネームが増えたのは自然現象であってわざわざ現代の変な名前だけ問題視する意味はないのだ。
変な名前を付ければそりゃいじめられやすくなるかも知れないがいじめた方が悪いで終わる。変かどうかは相対的に決まる以上は変な名前の人間は必ず存在する。だから誰にどんな名前を付けようが変な名前扱いされる人はどうしても出てくるわけで、じゃあ変な名前を理由にいじめた方が悪いでQAだ。
そして当然道徳的には、明らかに変な名前をつける親は認められない。
何でわざわざ自分の子供が不幸になりやすい選択肢を選ぶのか、という事になる。
自分を犠牲にして他人のためになる行為をするのなら自己犠牲で問題ないが、自分の子供を犠牲にして何の為にもならないことをするのか。(厳密にいえばキラキラネームを認めるような社会を形成させるという社会に対してのメリットはあるのだが薄いメリットである上に、キラキラネームをつける親の1人たりともこの理屈を把握している気がしないという…)
論理的に正しい結論と道徳的に正しい結論が異なる場合、どちらの主張をしてもよい。
論理的に正しい結論を主張した場合、それは人の価値観が間違っているという解釈になり、
道徳的に正しい結論を主張した場合、人の価値観は変えられないものだという解釈になる。
(以下、各々を論理的論・道徳的論と呼称する。)
論理的論は普遍的な論なので、「人の価値観」という現状を無視するが、
道徳的論は局所的な論なので、現状を肯定した上で考えている。
そのため、論理的論は現実を見ていない分実現しにくく、理想論に近くなってしまう。
かといって道徳的論ばかり採用していると価値観がアップデートされないため、時代に取り残されるどころか時代が進まないという事態になり、長期的には「最善手」である論理的論に負けてしまう。これは革新派と保守派の関係と同じだ(実際、両論が異なる場合は論理的論が革新的、道徳的論が保守的だ)。
どちらを選ぶかは個人の主義主張による、と言いたいところだが、比較的実現しやすくそして意味のある論理的論は採用すべきだし逆なら道徳的論を採用すべきだろう。
つまり私が言いたいのは、
論理的に正しいからといってそれが本当に正しいとは限らないし、
道徳的に正しいからといってそれが本当に正しいとは限らない。
ということだ。
*1:ところで…
ただし普通は一人での笑いというのは気味が悪いと思います。
例えば道を普通の音量で独り言を言っていたら(あとハンズフリーフォンなど)気味悪く…ないのでしょうね、質問者さまの場合は…。
というコメントも付いているが…なんというか、こう、人種が違うな、と感じる。
自分や質問者は 道を普通の音量で独り言を言っていても気味悪くとか全く思わない。(それどころか自分は「なんだこいつww面白いやつだなww」みたいな目で観察しそうまである。実際、道端で盲目で点字ブロック頼りに歩いてる人初めて見たとき見えないのをいいことに3分ぐらいガン見して観察してたし。まだブスの方が気味が悪い。)
しかし一般人にとってはそうではないらしい。不気味に思うらしい。分からん。多分生理的なものなんだろうが。転売屋とかが気に入らない感情は理解はできるけどこういうのは感情さえ理解できない。いや、皮肉では無くてマジで。
一応、これを日本語で言い表すなら「寛容さがある」なのだろうが寛容とか寛容じゃない以前にどうでもいいというか。この辺りの記事も書きたい。
*2:ここまで言っておいて何だが別に昭和時代に変な名前を付けた親を貶す意図はない。論理的に考えれば「変人」は悪口ではないから。
*3:完全に余談だが、自分は5年ほど前に小学一年生(2007年度生まれか?)の名簿60名ほどを見る機会があったが、キラキラっぽい名前が20名ほど居た。といっても流石にピカチュウ君レベルは居なくて、当て字の名前であったりやたら現実の人間の名前としてかっこよすぎたりする程度だが。(正直この記憶はかなりおぼろげなので実際にどんな名前があったかは覚えていない。)
当たり前の話だが変な名前の人が20人も居れば変な名前だからっていじめられることはあり得ない。ムカつく奴が20人居たら全員いじめるのかって話だ。