道徳の始まりは他人を想うことからだ。
道徳はこれまで様々なモノの価値を実体化し、それを等しくしてきた。
ある時は貴族でない者を、また、ある時は黒人を。
そして近代では女性を、果ては現代では動物を。
そしてこれから考えるのは、未来の道徳だ。
これは別世界ーー平行世界に干渉できるようになった近未来のおはなし。
この世界ではある平行世界への干渉を実現させた。
向こう側の世界はいわゆる世紀末と呼ぶべきか。
その悲惨で凄惨な世界は疲弊し尽くしていた。
あちらの技術不足が故に向こうから物を送ることは出来ないが、意思の疎通は出来るしこちらの世界から物品を送ることはできる。
さて、私たちは彼らに援助をすべきだろうか、と。
以降、我々の住む世界と並行世界を「実世界」・「別世界」と呼称することにしよう。
私たちは彼らに援助をすべきだろうか。
直感は人それぞれだろう。
昔の私は直感的にそれを偽善だと感じたし、今の私はそれは偽善ではなく善と思う。
だからこれは直感ではなく理性で考えるべき問題だ。
道徳の基本は「他人を助けるべき」という精神だ。
それに当てはめるならば別世界の人間は助けるべきなのだろう。
向こうはこちらに何もしてくれないのに、と思うだろうか。
しかし見返りを求めるのでは道徳とは言えない。
向こうの世界で起きたことなのだから自己責任だ、と思うかもしれない。
しかし自己責任、なんて言葉は道徳の反対語みたいなものであり道徳的かどうかの議論で適用させるべきではない。
少なくともこれを自己責任と呼ぶのなら後進国に生まれた人も自己責任と呼ばなければならない。
しかして並行世界の人々は道徳的配慮の対象になることが示された。
ところで、誰でも最高に幸福になれる100人の村*1と、そこそこ幸福になれる1000人の町*2があるとしよう。あなたはどちらの町村に生まれたいだろうか。
あなたが幸福になれる方を選ぶのであれば、前者を選ぶべきだろう。
人は皆、個人としてより幸せになりたがるものだ。
そしてそれを叶えるのが道徳であるべきだ。
世界の人口が70億人でそこそこ幸福であるより、世界は100人の村で非常に幸福である方が良いのだ。
しかして示されるのは幸福は総量ではなく平均で測るべきという観点だ。
さて、エヴェレット多世界解釈によれば、世界は事あるごとに分岐し、平行世界が作られているそうだ。
つまりこの世には無限の並行世界があると言っていい。
並行世界の人々は道徳的配慮の対象になるということを踏まえれば、配慮の対象は無限に存在する。
そして幸福は総量ではなく平均で測るべきということを踏まえれば、全配慮者の幸福量を足し合わせ、無限で割った値を大きくするのが道徳の目標と言えよう。
するとここに残酷な真実が生まれてしまう。
つまり——
無限の人間がいる中でたかが1人や2人の不幸がなんだと言うのだろう。有限を無限で割ったら0。無だ。それどころか70億人の不幸さえ無限の前ではゴミのようなものだ。
——という主張が通ってしまう。
誰かが不幸になった世界線がその後無限に分岐するから有限の不幸は無限の不幸に増幅するんじゃないのか。
そんな声が聞こえてきそうだが、別に無限➗無限=0になることもある。
人類が生まれた500万年前から世界が分岐していたとすれば。
あるいは地球が生まれた46億年前から世界が分岐していたとすれば…?
たかが現代で起こったことのその後の世界線の数が、どうやったら割り算の答えが0にならないほど大きな無限になれるのだろう。
そんな無限を無限倍したような全ての世界線、そしてそこに生きる文字通り無限の生命体。
それに比べて、有限の不幸や幸福が、一体世界にどれほどの寄与をするというのだろうか。
並行世界の住人に配慮することを認めてしまえば道徳はもはや無価値だ。あらゆる行動を絶対に否定できない、日和見主義者未満の、感情論より劣った腐った理屈に成り下がる。
しかしながら道徳というのは都合よく別世界の住人を差別できるようにはできていないのだ。
…こうなったら我々にできることは一つだ。
この世界に間違っても並行世界なんてものが存在しませんように。
そう願うことだけだ——。