この記事は上の記事の続き・補足となるので必ず見るように。
下に前回のおさらいとかあるけどあてにするな。
まず前回のおさらいから。
私刑が正しいのなら法律なんていらん。全て私刑で済ませばいいから。
じゃあ何故法律があるかというと私刑は人は人を正確に裁けないから。
つまり客観的に裁けるのが法律で主観的に裁くのが私刑。
じゃあその「客観的」とは何を指すかって「社会を豊かにすること」であり悪人を罰することが法律の存在意義ではない。
前回は意図的に感情的な記事にした、というか言いたいことは言い切った、という記事だ。
今回は細かいところを理屈で補足していく。
まず、大前提として、人間が真に客観的で合理的なら法律は要らない。そりゃそうだ。人が裁いても法が裁いてもこの条件なら同じだからだ。そしてむしろ、法律は無くすべきだ。
殺人や窃盗に良いも悪いもある。(言うまでもなく、死刑とは国による殺人罪であり、押収は国による窃盗罪だ。)
だから本来ならば悪い殺人や悪い窃盗だけを罪とすべきで、一律に殺人罪や窃盗罪にする必要はない。
この理想論が私刑の論理なわけだ。
まあつまりそれが不可能だから法律があるのだが。なぜ不可能かと言われてもそれが歴史的事実だからとしか言えない。または、人間がそう言う生き物だからだ、と言ってもいいが。
だから法律がある上に死刑が禁止されているのが当然と言う世の中になっている時点で私刑は間違っているのだ。
一応、これこれこういう条件を満たしたなら十分客観的と言えるので私刑をしてもいい、という基準を設ける事もできるが、やたら複雑になるだけだろう。被疑者(=リンチ対象)の周囲の人間にとって客観的なら他の人にとっても客観的なはずだから、初めから裁判という最も客観的な手段を使えばよいのだ。
ここで日本の主義の話をしよう。
日本は資本主義の国だ。だが社会主義の要素も少し入っている。例えば生活保護などの弱者救済要素だ。資本主義と社会主義、どちらも一長一短だが、資本主義の方が長所が強いので資本主義を採用している。
しかしそれだけでは資本主義の短所が強目に出てしまうので社会主義の要素も少し取り入れる。
これにより資本主義の長所を生かしつつ短所をカバーできる。
これと同じように法律にも私刑にも一長一短がある。だが法律の方が長所が強いので法律を採用している。
しかしそれだけでは法律の短所が強目に出てしまうので私刑の要素も少し取り入れる。
これにより法律の長所を生かしつつ短所をカバーできるが、私刑の短所が全てさらけ出されてしまうので弱点を増やすだけになってしまう。
上二つの段落を見比べてみよう。
…私刑の短所は感情論で人を罰するところだ。そして法律がどうであろうが感情論で罰せられる人の範囲は変わらない。つまり、私刑を少しでも法的に認めた時点で私刑の短所を十全に引き受けてしまうことになる。
だから私刑を中途半端に認めるのは全く意味がない。つまり法律によってのみ人を裁くか、私刑によってのみ人を裁くかの2択であり、その中間は存在しない。
そしてこの二択なら法治国家の方が良いのは歴史的事実が証明している。といっても自分はあまり歴史に詳しくないので具体的にと言われたら困るが。
以上が「法律を守ってるなら何をやってもいい」=「私刑をしてはいけない」という意見の論理的解釈だ。
で、その法律がどうあるべきか、とかマナー云々の話はまたの機会に