功利主義というのは倫理学の用語で「幸福度重視」の事です。
幸福度(これを効用を呼ぶ)を増加させることが道徳の目的であるべき。すなわち、善悪は人間が幸福になるかどうかで決めるべき、という主義を功利主義と呼びます。
つまりある行為をしてそれが全人間の幸福量の合計を増加させるなら善で 減少させるなら悪である ということです。
この道徳の考え方は恣意的でなく客観的に善悪を考えられるため、現在の倫理学者の主流な考え方です。
これには総量説と平均効用説の2つがあり、
総量説は全人類の幸福量の合計値を最大化しようという思想で、(人口を増加させることが善)
平均効用説は全人類の幸福量の平均値を最大化しようという思想である。(人口は無関係)
現在は総量説が主流となっています。その理由はおそらく次のような理由です。
・倫理学の生ける伝説ピーター・シンガー氏がこれを主張している
・人間だけでなく、動物などに対しても自然に主張を拡張できる(人間と動物を区別するのは差別なので動物も考慮できる意見が採用されるべき)
・平均効用説は不幸な人間を殺すことが許容されやすいので採用しにくい
しかし私は平均効用説を主張します。その理由は以下です。
・総量説も不幸な人間を殺すことを十分許容する
もし効用に負の値が存在するなら負の効用を持った人間は殺してよいとなる。逆に存在しないとするなら産めよ増やせよでとにかく人間を大量に増やすべきということになる。これはこれで「産まないより産んでから飢え死にさせた方がよい」となるので消極的に殺すのを認められる。これを防ぐために総量説の人は「人を殺してはいけないのは目標を達成できなくなるからだ」などと主張するが別にこれは平均効用説でも主張できる。
・そもそも「人が死ぬのは不幸である」というのは不自然だ
よく、「死刑を存続させるべきか」というような議論があるが私からみれば馬鹿らしい議論に見えてしまう。何故なら「死刑は終身刑より重い罪である」という全く同意できない大前提から始まっている議論だからだ。当たり前だが人が怖がるのは「死ぬ」ことであり「死んだ」ことではない。死んだら人は悲しめないし苦痛を感じるはずは無い。今この瞬間世界が消失して全ての人間が死んだとしても誰も不幸にはならない。
だから「(不幸な)人を殺すから平均効用説は許容されない」というのは恣意的に思える。(それ以前に平均効用説は不幸でも社会に貢献する人間は殺さない。また、「社会に不安を与えないようにするために殺さない」という考えでもよい。)
・総量説は人口が多ければ不幸を許容する
総量説では、「人口が1万人で全員が1万の幸福度の国」よりも「人口が1億人で全員が10の幸福度の国」の方がよいとされます。私は人口1万人の国の方に生まれたいですね…。効用に負の値を認めたとしても「人口が多ければ幸福で無いことを許容する」という構図は変わりません。
・平均効用説も動物に対して拡張できる
これに関しては重要な部分なので別の記事に書きます。(12/25公開予定です。なんで自分、クリスマスにブログ書いてるんだろう…)
私が主張したいのは「総量説より平均効用説の方が合理的な考えである」という点です。人を殺しても問題ないとか主張したいのではありません。(まあ私は別に人を殺してもいいと思ってるのは事実ですが…)
もし合理的な考えがあまりにあり得ない結論になったとしたら、倫理・道徳は合理的な(矛盾のない)考えであれば正しいとは限らなくなります。
つまり核心を突くなら私の意見は「平均効用説が正しいか、さもなければ客観的に正しい道徳なんざ存在しない」 ということです。