利他的というのは自分を犠牲にしてでも他人の利益を図ることである。つまり他人に利他的であれと言うのは犠牲になってくれと言うに等しい。他の人の利益の為に自己犠牲を払う人を身の回りに増やそうとする人、即ち自分の為に動いてくれる友人を増やそうなどと考える人は利己的な人間としか思えない。
世間に利他的な人間を増やすことで社会をより良くし、巡り巡って誰もが幸福になれるのだから他人に利他的を押し付けても何の問題も無いという考え方も出来る。
しかしそれは実用上、「その友達が不幸になる代わりにその友達以外の知らない人間が幸福になっていれば問題はない」という考え方になってしまう。「利他的」とはそういうことだ。当然この考え方自体には問題は無く、一人が不幸になる代わりに他の人が幸福になっていれば問題はないが、利他要求人が本当に友達と知らない人を等価に扱う平等主義を抱えて生きているとはとてもじゃないが思わない。仮にそうだとして、友人に利他を要求するという非効率な手段を取っている時点でその意義は疑わしい。精々数人が利他的になって何が変わると言うのか。
それ以前に、「社会を良くする為に友人を利他的にする」とは「他人を利他的にして利他的な人間に得をさせる」ことであり、つまり「利他的な人が得をする社会にする」ということだ。もし利他要求人が利他的ならば、自分の利益の為に他人の為に行動している人を増やしているということになり、それは利他的な(=自分を犠牲にしてでも他人の利益を図る)人ではない。
結局のところ他人に利他的であることを要求する人は「俺のために便宜を図れ」と言いたいだけなのだ。本人がどう思っていようが論理的にはそうなる。