反社会的思考のススメ

【反社会的】[形容動詞]社会の道徳や規範から大きく外れているさま。 道徳、常識、法律、そういうものを超えた考え方を勧めたい。…勧めたかった。多分2019年11月は真面目に更新できてます。ブログ名詐欺な気はしないでもない。最近は毎日更新してるから仕方ない。 ←何言ってんだこいつ。数年後に見たらむっちゃ恥ずかしいこと言ってんな

善悪という概念は必ず矛盾を伴うことを数学的に示したい

 

大前提

・善い行いをするほど社会が良くなり、悪い行いをするほど社会が悪くなる。…①

・同じ状況に居るなら何が善で何が悪かは一意的に定まる…②

以上を前提にした時善悪の概念に必ず矛盾が生じることを示したい。

 

前提などから自明に定まる定理

・善悪は回数ではなく量で定まる…③

  ∵(←なぜならばの意味)そもそも回数という概念が不明瞭。一つの善を2回に分けたら2倍善くなるのは流石に不自然。

・善悪は他人の行為との相対的ではなく絶対的に定まる…④

  ∵もし相対的なら、 善悪の合計がゼロになり何をしても合計が0⇒何をしても善悪の合計値が変わらない⇒何をしても社会は良くならない これは矛盾 よって絶対的

・行為の善悪を結果で定める事は出来ない…⑤

  ∵その行為をしなかったらどうなるかを見る事は不可能。よって比較検討ができない。(バタフライ効果、風が吹けば桶屋が儲かる。)よって結果がどうなるかではなく結果がどうなりそうかという基準しか作れない。

・善い行いをするほど社会が良くなりそうだという期待値が高くなり、悪い行いをするほど社会が悪くなりそうだという期待値が高くなる。…①'

  ∵結果がわからない以上、厳密には前提をこうせざるを得ない

・世の中には悪人がいる…⑥

  ∵自明。

 

 

これらを認めた上で以下の疑問を解決できるだろうか?

 

 

各々が好ましいと思う社会はそれぞれ異なり、それは数値化できるはずである(以下、効用と呼ぶ)。

では良い社会とはどのような社会であろうか?

・効用の合計が高い社会…すでに生まれている人を幸福にするより人口を増やしまくる方が有利

・効用の平均が高い社会…不幸な人を殺すことを是認する

・効用の中央値が高い社会…少数派を差別し、奴隷にすることが認められる

・効用の分散が低い(平等な)社会…全員が最も不幸な人に合わせて不幸になるのが最適解となる

・上記の複合…単位が異なる数値を複合させることに合理性が存在しない。複合させる方法とその配分も苦しい理由付けになる。

 

 

 

良い社会とは誰にとって良い社会であるべきか?

その社会の構成員という意味で「自国の民」とするのはあまりに恣意的ではあるが、かと言って「世界中の人々」とするのも根拠に欠ける。

なぜなら、なぜ人間に限定されるのかが不明瞭だからだ。もちろん動物に限定する根拠もなければ生物に限定する根拠もない。

とすれば「あらゆる物理的存在」とするのが最も普遍的ではあるが、「あらゆる物理的存在」にとって良い社会というのを考える時にどうしても人間目線でしか考えられないと思われる。(実際私は、「複雑さ」が大きいほど価値のある物質なのではないか、そう考えれば生物、特に人間の尊重度が高いのも説明できるのでは、と考えたが恣意的にも思えて仕方がない)

実際のところ人間は複数の科学的物質の集合であり、意思や思考は神経を通る信号でしかない。今の科学力では人間を錬金する事は出来ないが理論上は錬金できる可能性はあり、そうなってくると人間はただの物質であり無機物と区別をつけるのは難しい。

 

 

人はどの情報ベースで善悪を考えるべきか?

①'…善い行いをするほど社会が良くなりそうだという期待値が高くなり、悪い行いをするほど社会が悪くなりそうだという期待値が高くなる。

つまりこれは持っている情報によって主観での善悪が変わるという事である。

例えば「人命は尊重すべきなので死刑を廃止すべきだ」と言っている人が死刑がある方が殺人が大きく減るという情報を得ると「人命は尊重すべきなので死刑を継続すべきだ」と主張するようにである。(なお上のはあくまで例であり適当な情報なのであしからず)

この場合彼にとっての社会のためになることが「死刑の廃止」から「死刑の存続」に変わっている。

さて、彼はどうすればよかったのであろうか。きちんと調べてから善悪を考えるべきだったのだろうか。しかしそれではあらゆる善悪の判断の前に調べる必要が生じてくる。さらに当たり前なことに人は自分が十分な情報を得ているのかが分からない。いくら調べて情報を得ようと「自分の知らない情報がない」事は分からないからだ。

知識人の間でさえ(価値観の違いからか情報量の違いからかは定かではないが)何が善で何が悪かは意見が割れるというのに一体誰が真の善悪というものを知っていようか。

いや、もっと言うなら人類が持つ全ての情報を理解できたとして、それで真の善悪が見つけられるのだろうか?

そう考えた時、我々は誰を基準にして善悪を判断すべきなのだろうか。

 

なお「自分の持つ情報を基準にして考えるのが現実的だ」と言うのは納得がいくようにも思えるが、下手をすると知的能力を十分に備え、社会問題に関して真摯に取り組んでいる人と何も考えずにただ気ままに生活している人が五分になり得る事には留意すべきだろう。

また、世の中には悪人がいる(…⑥)ため悪人によって誤った情報が流れることも考慮に入れるべきだ。善意の人間が裏も取らずに悪意ある情報を又流ししてしまうかもしれない。(例:震災の時のデマ。)つまり「自分の持つ情報が悪人に汚染されているかも知れない」のだ。ひょっとすると自分が良いと思ったことをするより何もしない方がマシということもあり得る。

…この一点だけを考えても「善い行いをするほど社会が良くなりそうだという期待値が高くなり、悪い行いをするほど社会が悪くなりそうだという期待値が高くなる。」(…①')と言うのは余りに疑わしくほとんど矛盾に等しい。

 

 

 

子供を産んだ親の善悪をどう決めるか?

人間は生涯を通して平均で差し引き100の善を積むとする。例えば人間は平均的に500ぐらい善行をして400ぐらいの悪行をするとしよう。

では子供を一人産むと言うことの価値はどれほどだろうか。それはどれほどの善に値するだろうか。

善い行いをするほど社会が良くなりそうだという期待値が高くなり、悪い行いをするほど社会が悪くなりそうだという期待値が高くなる。…①'

つまり子供を一人産むことの価値は人間が積む善の量の期待値と考えられる。

では子供を産むのは100の善行となる。

 

…さて、子供が成長し実際は300の善行を積んだとしよう。

実際に現実の社会に及ぼした善行は300である。しかし子供が生まれ成長するにあたってなぜか計400の善が存在することになってしまっている(親が100、子が300)。これはおかしい。①'から考えれば、計400の善行をしたならば社会は期待値で400は良くなってくれないと困る。

 

では調整してみよう。いくら子供が善行を積もうともそれは親が産んでくれたからに他ならない。つまり親が前提となっているから親を尊重しよう。

親が100、子が200。

…何かがおかしい。子供は平均で100の善行を積むと約束したはずだ。この場合子供の善行が-100されてしまう。つまり平均で0になる。平均が0ということは合計も0ということだ。

・①・③⇒善悪は他人の行為との相対的ではなく絶対的に定まる…④

  ∵もし相対的なら、 善悪の合計がゼロになり何をしても合計が0⇒何をしても善悪の合計値が変わらない⇒何をしても社会は良くならない これは矛盾 よって絶対的

 これと同様の理屈で子供は何をしようが善も悪もないということになってしまう。ここでの「子供」は年齢が低い人のことではなく親の腹から生まれてきた人、つまり全人類である。この意見を認めると善悪の概念は崩壊する。

 

かといって他の調整方法は合理性に乏しい。

 子を優先し、親が0、子が300としてしまうと誰もが子供を産む必要がない社会である。だってそれは良い行いではないから。誰も子供を産まなくても誰も責められない社会である。反出生主義はそういう主義ではなかったはずだが…

まあ子供が善行を積むかどうかと社会を存続させるかは別で計算すればいいのだがそういう問題ではない。善いことをする物体を作っているのだからそれは善いことのはずだ。

 

子が積んだ善行を親と折衷する手も思い付く。つまり親が150、子が150だ。

しかし善行は行為にかかるものであり、親は「子供を産む」という行為の善悪を背負いこむべきで、結果は関係ない。子供を産んだその時点でその善悪は決まるべきだ。子供が凶悪犯になったのは親が子供を生んだせいだとなってはたまらない*1

 

正直、ここに関していえばどうあがいても矛盾が生じてしまう。

 

 

 

 

本当はもう少し数学的で厳密な話をしたかったが文字数も長くなってきたのでここで筆を置くことにする。良い社会とはどのような社会であろうか?・良い社会とは誰にとって良い社会であるべきか?についてはギリギリ合理的な考え方が可能ですが、人はどの情報ベースで善悪を考えるべきか?は合理的に考えることが不可能で、子供を産んだ親の善悪をどう決めるか?に関していえば明らかに矛盾しています。

*1:ここでは「子供を産む」ことの善悪を考えているのであり、「子供を育てる」ことの善悪は考えていないことに注意