全ての道徳に正当性が存在しないことの証明を以下に記そう。
まず前提として、道徳は矛盾を包括してはならない。
道徳という理論において矛盾はあってはならないのだ。
そして道徳というからには人や行為の善悪を判断できる必要がある。
より抽象的に言うならば道徳は物事を比較する必要がある。
比較という概念を厳密に扱えるのは数学のみだ。
さらに道徳はありとあらゆる行為の道徳性に優劣をつける必要がある。
道徳は人や行為の善性・道徳性の数値化が可能でなければならない。
そして数値化した場合その値の範囲には自然数が含まれるのが自然だ。
つまり道徳の一部としての数学は自然数を扱える。
自然数が扱えるならゲーデルの不完全性定理が成り立つ。
簡単に言えば(自然数を割と自由に扱える)数学は自身の無矛盾を示せない(矛盾がある可能性が残る)、という定理だ。
数学が無矛盾であると示せない以上、それを含む道徳も自身が無矛盾であることを示せない。
よってあらゆる道徳は矛盾の可能性を孕み、その正当性を主張できない。
ゆえに、全ての道徳には正当性が存在しない。
さて、一見もっともらしく見える議論だ。(いや、割と胡散臭いか。)
以上の議論において前提とされていたのは以下の7つである。
①道徳は矛盾を包括していてはならない
②道徳は物事を比較する必要がある
③比較という概念を厳密に扱えるのは数学のみ
④道徳は人や行為の善性・道徳性の数値化が可能
⑤数値化した場合その値の範囲には自然数が含まれる
⑥自然数を使えるならゲーテルの不完全性定理が使える
⑦道徳は数学を含むため、数学に矛盾があるなら道徳も矛盾を含む
①は当然。矛盾を含むなら殺人は善いことであり、かつ悪いことであるという結論さえ容易に導ける。これでは意味がない。
②も当然。比較できなきゃ善いも悪いもない。XよりYの方が善いと言うためには比較の概念が必要。
③も当然。数学なら比較ができるというより比較という概念があるならそれは全て数学の範疇と言えよう。
④は少し怪しい。
数値化はせずに比較を行う数学は存在する。例えば政治学・経済学で使われる「選好」を用いる数学は足し算引き算はできないが比較はできるという奇妙な分野が存在する。
(余談だがその分野のおかげで選挙は必ずしも最も好ましい人間を選べるわけではないことが証明されている。)
⑤はかなり怪しい。ここは重要な論点なので後述。
⑥は多分問題ない。四則演算ができることも条件の一つだが四則演算できない場合は④で弾かれるので⑥では不問にしてよい。wikipediaとかを見る限り多分。大丈夫。
⑦は実質正しい。もし(道徳が扱う範囲の)数学には矛盾があるかもしれないのに道徳には矛盾はないと主張するならそれは道徳をつじつま合わせのための都合のいい駒として使っているに過ぎない。それは最早道徳ではない。…というかそもそも数学のどこに矛盾があるのかもわからないのにそれを道徳で打ち消せるのはおかしい。
よって以下が正しいかが主な争点となる。
④道徳は人や行為の善性・道徳性の数値化(つまり四則演算)が可能
⑤数値化した場合その値の範囲には自然数が含まれる
④に関してだが、
道徳で四則演算ができないということは人の善悪の比較ができないということだ。
例えばAとBをした人とXとYをした人のどちらが善い人かを確かめるならA+BとX+Yを比較せねばなるまい。だが四則演算ができないということはそれができない、ないし比較の根拠が薄いことを意味する。
よって棄却する。
⑤数値化した場合その値の範囲には自然数が含まれる に関してだが、
実は虚無主義の世界には0しか存在しないので自然数が含まれない。
ようやく記事タイトルを回収するのだが、虚無主義とは「あらゆるものの価値は0だ」とする主義だ。
これに従えば全ての物や人の価値は0で自然数を含まない。
0+0=0 で 0-0=0 で 0×0=0 だ。矛盾が起きようがない。
よって虚無主義には絶対に矛盾がない。(数学的に保証されている。)
なので虚無主義は正しいことになる。
これに対抗するためには虚無主義と同等の正しさ(矛盾の無さ)を持つ理論を作り上げなければならない。
さて、どうやったら自然数のない道徳を作れるだろうか。
もし人を1人殺すことを「1」だけ悪いことだとするのなら、2人殺せば「2」、100人殺せば「100」となり、自然数になってしまう。
もし 人を1人殺すことを「2」だけ悪いのだとしても「ルート2」だけ悪い行為だとしても四則演算で容易に自然数を作れてしまう。
これを解決するウルトラCとして、実数が使えないなら超実数を使えばいいじゃない、という理屈で0とプラス無限とマイナス無限のみの道徳を作る、というものがある。
こうすればどのように四則演算しても自然数を作ることはできない。
…但しこれには一つ問題がある。
「無限」+「マイナス無限」の答えが定まらない。0かもしれないしプラス無限かもしれないしマイナス無限かもしれない。無理やり答えを決めると結合法則や交換法則が乱れてしまう。
(つまり、人を殺してから人を救った人は善い人判定されるけど、人を救ってから人を殺した人は悪い人判定されるということがありえる!人生の最後にやったことが善行か悪行かだけでその人の善悪が決まってしまいかねない!)
これをなんとかするには0とプラス無限のみの道徳を作るしかない。(あるいは逆に0とマイナス無限のみの道徳でも可)
が、これはこの世には善しかなくて悪という概念がないことを意味する。
「なぜプラスしかないのか」ということの説明ができない。
よって棄却する。
ようするに矛盾する可能性を0にできうる道徳は以下のどちらかを満たさない。
④道徳は人や行為の善性・道徳性の数値化(つまり四則演算)が可能
⑤数値化した場合その値の範囲には自然数が含まれる
そして虚無主義は明白に⑤を満たさず矛盾が確実に存在しない。
また、④を満たさない場合は善悪を比較できないケースが生まれ、道徳として不完全だ。
④を満たして⑤を満たさない場合、虚無主義以外の方法では数学的法則を乱さねばならず、論理としての不自然さが残る。
虚無主義は無矛盾なのに他の主義は自身の無矛盾性を証明できないのだ。
ゆえに、虚無主義が正しいことは示された。
まあ仮に虚無主義以外で無矛盾な道徳が出てきてもそれは正しさが虚無主義と同じになるだけで虚無主義の間違いが指摘されるわけではないのだが。
本当に「数学的証明」をしたいのであれば相対主義における真理と意味.pdfぐらいはすべきなのかもしれないが知らん。
自分自身としての立場は、自分は虚無主義者かと言われると微妙だが最も正しいのは虚無主義かなあ、とは思ってます。