反社会的思考のススメ

【反社会的】[形容動詞]社会の道徳や規範から大きく外れているさま。 道徳、常識、法律、そういうものを超えた考え方を勧めたい。…勧めたかった。多分2019年11月は真面目に更新できてます。ブログ名詐欺な気はしないでもない。最近は毎日更新してるから仕方ない。 ←何言ってんだこいつ。数年後に見たらむっちゃ恥ずかしいこと言ってんな

「区体論」というトンデモ数学理論があるらしいので見てみた。

《区体論 》という理論が数学の三大トンデモ理論の一つだとかなんとか言われているらしいので見てみたところなんというか大学学部生レベルの知識でわかる誤謬がめちゃくちゃ多い。

「物の集まり」を扱うことを、公理的集合論は禁じている。なのに、その禁じていることを、素朴集合論は犯しているのだ。つまり、両者はたがいに矛盾する。もし一方を選ぶならば、他方を捨てねばならない。両方をともに選ぶことはできない。

そんなことはない。ユークリッド空間と非ユークリッド空間のように矛盾する理論は両方同時に発展しうる。もちろん、前提が矛盾する以上はあるときある瞬間はこちらを採用する、という必要があるが、それは違う世界のことを話しているだけの話だ。

だから前提が矛盾する理論があってもどちらかが否定されるわけではない。

ZFには、公理がある。その公理は、素朴集合論の考え方を、数学的に形式化したものだ。たとえば、和集合を作ったり、共通集合を作ったり。……こうした操作は、素朴集合論における基本的な操作である。ゆえに「自明なこと」として、ZFは取り入れた。
 しかし、すでに述べたとおり、ZFは、素朴集合論とは別のものなのだ。むしろ、たがいに矛盾するものなのだ。としたら、素朴集合論の操作をZFの公理に取り入れることなど、できないはずである。そんなことをして理論をつくっても、まったく、根拠を欠いている。いわば、砂上の楼閣をつくるようなものである。 

前提に根拠なんぞいらん。以上。

前提は根拠がないからこそ前提なのだ。確かにゲーテルの不完全性定理によってZFに矛盾が残る可能性は示されたが、それは「自然数という自然な数を定義したはずなのにそこに矛盾がある」って話で公理は関係ない。

…そもそも和集合はまだともかく共通集合は公理ではないし…

われわれの望みは何か? それは、はっきりしている。すでに述べたことを思い返せば、明らかだろう。
 (1) 物の集まりを扱うこと。
 (2) 現代数学を矛盾なく構成できるような、厳密な理論体系を築くこと。
 この二つの目的を、同時に達成したいのである。二つの目的のうち、 (1)は素朴集合論が達成したし、 (2)はZFが達成したが、そのどちらか一方ではなく、双方をともに達成したいのである。

数学はそんなものを求めた試しは一度もないが。というか現実のものの集まりを考えたいなら論理学で十分だが。

集合とクラスの境界は、いったい、どこにあるのか? どのへんからどのへんまでが「集合」であり、どのへんからどのへんまでが「クラス」であるのか?
 このことは、実は、集合論の最大の難問である。20世紀の初め以来、今日まで、その解答を求めて、多くの集合論学者が頭を悩ませてきたにもかかわらず、いまだ解決していない。  

いや、公理から作れるもののが「集合」だろ。「クラス」の定義は知らんが「集合」の定義が厳密ならいいだろ。 

自然数無限を「第一無限」と呼び、実数無限を「第二無限」と呼ぶことにしよう。(この場限りの話だが。)
 すると、べき集合公理により、「第三無限」「第四無限」……というふうに、次々と高次の無限が発生することになる。「発生してもよい」のではなく、「発生しなければならない」のだ。それらの高次の無限は、第一無限や第二無限と同等の資格で、集合論の世界のなかに存在する。
 ところが、われわれの世界は、異なる。われわれの世界には、有限も、第一無限も、第二無限も存在する。(たとえば、一本の直線上には、第二無限の量だけの点が存在する。)しかし、われわれの世界には、第三無限や第四無限などの高次の無限は、存在しない。というより、存在してはならない。われわれの世界に収まるのは、最大でも第二無限であって、それより大きな無限はとうてい収まらないのだ。たとえば、第三無限を、一本の直線上に並べることはできない。もちろん、直線でなく、平面や立体空間のなかに並べることもできない。 
 つまり、集合論の示す世界と、われわれの世界とは、全然別のものなのだ。いわば、集合論とは、五次元世界のための理論のようなものだ。「この世界は五次元だ」ということを主張する理論は、三次元の世界に住むわれわれには無意味だ。同様に、「この世界には高次無限が存在しなければならない」ということを主張する理論は、実数無限の世界に住むわれわれには無意味だ。

「この世界には高次世界が存在しなければならない」なんて1mmも主張してないが。理論上の存在と現実に存在しているものは別だが。それをいうなら「1」という概念は現実に存在しないし。

「現代数学は第一無限までしか扱えないが現実には第二無限が存在する。よって現代数学はおかしい」なら分かるが現実より"広い"範囲が表せて何が悪いんだ…抽象的が数学の本懐だろうに。

 (4) 「1.00000・・・」という実数と「0.99999・・・」という実数は、別の表現を取るが、同じ実数である。では、どうして、これらの場合だけ、二つの表現を取るのか? はっきりとした説明は、なされていない。集合論のなかでは、説明できない。

実数の定義(有理数列の極限値をその数列の値としこれを実数とする)より説明できる。

集合論の信念は、それとはまったく異なる。「理論は強力であることが最優先だ」というものである。その結果、理論の姿は、ツギハギだらけのフランケンシュタインのようなグロテスクなものになってしまったが、そうしたことは気にしないようだ。「どんなに汚くとも、力さえあればいい、力が大事」と信じているわけだ。

 非常に文句を言いたくなる文面なのだが割と分かる。全然いまの数学の公理は直感的じゃない。紆余曲折あって(スタンダードな理論としては)これしかないとなったのを踏まえてもナンジャコラってなる。

ここで注意すべきことがある。
 「実数としての自然数」というものがある。それは、10進法で示すと、
     17.0000000……
 のように、小数点以下がすべて 0 である実数である。
 この数は、連続濃度の空間における自然数である。一方、可算濃度の空間における「17」という自然数もある。この両者は、まったく別のものである。
 可算濃度における「17」は、アトムである。一方、実数としての「17.0000000……」は、無限小である。両者はまったく異なる。1対1の対応を付けることは可能だが、ともかく、本質的に異なる。
 
  ※ 2種類の自然数
    この2種類の自然数は、まったく別のものである。性質が異なると
    いうだけでなく、属する数学的空間が異なる。
    この点、集合論とは異なるので、注意のこと。
    集合論では、一つの数学的な宇宙のなかで、自然数も実数も扱う。 

 ※現代数学でも実数としての17と自然数としての17は全く異なる概念です。まあ全ての数を初めから実数と考えれば済むのでその辺りは省略されがちなだけです。

集合論の世界では、実数の決定性に関する問題[パラドックス?]というものがある。次のようなものだ。
「実数は、有理数による切断で定義される。ところで、有理数の総数は高々可算でしかない。有理数を有限個組み合わせてできる記号列も、高々可算でしかない。つまり、定義できる実数の総数はたかだか可算でしかない。結局、実数のほとんどすべては原理的に定義不可能(決定不可能)である」
 このことは実は、パラドックスではない。集合論の世界では、当然の事実である。
 しかし、ここには、根本的な問題がある。集合論の世界では、実数とは、存在性は言えても、定義不可能なもの[=決定できないもの・判然としないもの]ばかりなのだ。これはどう考えてもおかしい。 (たとえば、 ∀ の対象がはっきりとしないことになる。)
 
 では、この問題は、区体論では、どうなるか? (カントールのパラドックス、ラッセルのパラドックスは、区体論では発生しなかったが。)
 実は、この問題も、区体論では発生しない。
 区体論では、実数を定義する際、「有理数によって決定する」という方法を取らず、「2n分割」という方法を取る。つまり、「下の方から」ではなく、「上の方から」構成する。 この方法は、実数そのものを一つ一つ定義するのではなくて、実数を作り上げる方法を定義する。そこで定義している箇所は、小数の桁の取り方であるが、それは、本質的に言えば、「2n分割」のうちの指数部(nの部分)である。そこを逐次的に定義しているわけだ。だから、定義の回数は可算であっても、それによって作り出される実数の総数は2nふうに可算以上(連続)となる。2nのものをひとつひとつ個別に構成していくのではなくて、手続きのところが可算となるのだ。というわけで、もちろん、集合論の場合のような問題は生じない。 

 

(原文だと2n は2^nの意味に取れる位置に「n」が置かれている)

 集合論において実数は有理数の数列の極限として定義されるため、2^n分割と全く同じ方法で実数を定義可能。まあ「結局、実数のほとんどすべては原理的に定義不可能(決定不可能)である」は否定し難いのだけど。

集合論の世界では、「体系全体」というものがはっきりとしない。とすれば、 ∀ で定まる対象もまた、はっきりとしない。たとえば、ゲーデルの不完全性定理に対応するかもしれないような集合が出てきた場合、その集合が ∀ の対象として引っかかるのかどうかはっきりとしない。 

 な ん の た め の 公 理 だ 。

 

 

うん、まあこのくらいで勘弁してやろう。