ネットサーフィンしてたらこんな記事を見つけた。
少なくとも、Aが働こうにも働ける状態ではなかったことは間違いないだろう。
現に死ぬまで働かなかったのだから…
この事件は生活保護の現状(といっても2007年の事件だが)を表した事件らしいがそんなことは関係無い。
自分の琴線に触れたのは上に引用した一文だ。
「死ぬまで働かなかった」ならば「働けなかった」は正しいのだろうか?
本当は働けるけど働きたく無いから餓死をする人間は異常なのだろうか?
自分はそうは思わない。
子供が一番自殺する日は9月1日だと言う。
9月1日。言わずもがな、2学期が始まる時期だ。
つまり小中学生でさえ、学校に行きたくないというだけの理由で能動的に死ぬことができるのだ。
なのにどうして、働きたくないから餓死しようという人間が存在しないと言えようか。
もちろん学生が死ぬのはイジメなどの能動的な自殺志願理由があるかもしれないが「死ぬ」行為が能動的なのでそこは相殺されるだろう。
能動的被害のために能動的に死ぬのと、受動的被害(働かないから金がない)のために受動的に死ぬのもそう変わりない。それどころか餓死したいという思いは自然なようにも思える。
一人暮らしをしている人にとって、24時間何も食べないのは十分ある。
自分や友人が実際に体験している。夏休みなど、家で時間を無為に過ごしていると、特に理由はなく1日何も食べない時がある。「よくよく考えたら昨日何も食べてなくない?」と思った日もあったぐらいだ。
流石に日常的な行為ではないが、自分が一人暮らしを2年してきてそのうち5日程度は0食なのだ。
別にそこに理由はなく、なんとなく面倒臭いというだけだ。
たかが1日の絶食と餓死するほどの絶食を同一視するわけではないが、食事をしないのは「受動的な死に方」であると分かるだろう。
ナイフで襲いかかってくる人から逃げないとか、首を吊る為の輪を設置してそこに首をかけるという行為の心理的ハードルと比べてあまりに受動的。*1
食事をしないことでいかに苦しもうとも、そこから逃れるには1日数時間労働する必要があるのなら、面倒臭くなって死を選ぶのは悪い選択肢ではないように思う。
別にこれは鬱病とか関係無く、働かないこと、引きこもることが常態化してしまった人なら誰しも感じるものだろう。これまでの自分を変える、というのはそれほどまでに面倒臭いものなのだ。
人は働きたくないというだけで餓死できるのだ。
参考:精神科医"9月1日に自殺する子供の心理" | プレジデントオンライン
*1:駅のホームから一歩だけ足を踏み出して電車に轢かれるのはほとんど「受動的死に方」と言っていい。「死ぬ」という選択肢を自分で選ぶ罪悪感にさえ耐えられれば、ともすると衝動的にすら死ねるのだ。その点において電車で死ぬのは極めて楽だ。自分で舌を噛み切るよりかは、何百倍も。