問題。次の1500字程度の文章「食人鬼とトロッコ問題と権力勾配」を読んで筆者が主張したいことに最も近いものを①〜④のうち一つだけ選びなさい。
①「食人鬼と少女のお話」の漫画の作者は殴られるべきである。
②サンデル・マイケルは殴られるべきである。
③「食人鬼と少女のお話」の「食人鬼」は殴られるべきである。
④「食人鬼と少女のお話」の「世間の群衆」は殴られるべきである。
注意:20秒で良いので上の文章を読んで心の中で番号を選んでからこの先を読むこと!
さて、上の文章の読解を始める。
(以下、「作者」はマンガの作者を表し、「著者」は文章の著者を表すことにする。)
第一見出し:食人鬼と少女のお話
「食人鬼と少女のお話」の内容はこうだ。
・食人鬼が飢え死にそうな少女に今死ぬか幸福に暮らしてから死ぬかの究極の選択を選ばせる。少女は後者を選び、約束は果たされ少女は無事死亡。
・民衆は食人鬼を悪者と断定し殺す。
そしてこのマンガの真の主張は(著者曰く)「食人鬼は悪ではなく、群衆こそ悪である」だ。
しかし著者はこれに警報を鳴らす。
これを現実に当てはめると搾取集団は悪ではないとなってしまう。これを問題視しているわけだ。
つまり著者の主張はマンガの主張とは逆で「食人鬼こそ悪である」だ。
もっと抽象的にいうなら「他人を相対的に幸福にしようが絶対的に幸福にしない人間は悪人だ」と言っている。
第二見出し:究極の選択と権力勾配
トロッコ問題は例のマンガと同じ構造を持っている。その構造とは
・議論のための虚構である点
・その結論を安直に現実に当てはめると問題が起こる点
…だけではない。
ところで、少女が究極の選択を迫られるこの物語が、いわゆる「トロッコ問題」と同様な構造を持っていることが指摘されている。’(太字は引用者)
つまり
・究極の選択を迫られる点
だ。
さて、これを踏まえた上で、
愚直に解こうとすれば、一人殺すほうを選ぶしかないように思える。しかし、いかにも非現実的で不快な問題設定からも分かるように、真の問題は「誰がなぜこんな問題を設定し、それを解かせようとするのか」だ。
を解釈すれば、「究極の選択を迫る人間はクソだ」となる。
そして問題はこの「究極の選択を迫る人間」が「創作上で選択を迫る人(作者とサンデル)」なのか「現実で選択を迫る人(搾取集団)」なのかである。
文章中で引用されているcdb氏のつぶやきは両方どちらかといえば現実でのトロッコ問題を問題視している。
また、
いかにも非現実的で不快な問題設定からも分かるように、真の問題は「誰がなぜこんな問題を設定し、それを解かせようとするのか」だ。(太字は引用者)
「非現実的」という単語をみると創作上で選択を迫る人を非難しているようにも思えるが、「それを解かせようとするのか」とあるように選択を迫ることで利益を享受できる人間(=搾取集団)を非難しているようにも見える。
さらに、見出しは「究極の選択と権力勾配」である。明らかに上の人間が下の人間に究極の選択を仕掛けることに関しての文章だ。
総合的に見れば「究極の選択を迫る人間」とは「現実で選択を迫る人(搾取集団)」のことと考えるべきだ。「非現実的」の語は単に「非常識」程度の意味で捉える方が自然だ。
まあ両方同時に非難している可能性もあるが、より強く非難しているのは搾取集団の方なのは根拠の数の比から明らかだろう。
つまり「第二見出し:究極の選択と権力勾配」の結論は「現実で究極の選択を迫る人間はクソだ」ということになる。
さてここまでを理解した上でラストの一文を読んでみよう。
こんな問題は解いてはいけないのだ。トロッコ問題の正解は「こんな問題を解かせようとするサンデルを殴りに行くこと」だ。(太字は原文ママ)
このサンデルというのは現実で究極の選択を迫る人間の暗喩であることがよく分かる。
トロッコ問題を解かずにいられる世界、第3の選択肢が存在する世界とは「現実」でしかあり得ない。
「クビが嫌なら減給するぞ」とか言ってくる社長や「借金を返せないなら風俗で働け」とかいう闇金を殴れるのは現実だけだ。
そしてそう解釈すればこの文章全体の主張が見えてくる。
第一見出しでは「食人鬼こそ悪である」
第二見出しでは「現実で究極の選択を迫る人間は殴りに行くべき」
という主張をしている。
そして、第二見出し冒頭に「トロッコ問題は例のマンガと同じ構造を持っている」旨が書かれている。
これは、トロッコとマンガの間で共通の論理が使える、と言っているに等しい。
だから「食人鬼こそ悪である」から「現実で究極の選択を迫る人間は殴りに行くべき」を導く意図か、「現実で究極の選択を迫る人間は殴りに行くべき」で「食人鬼こそ悪である」を補強する意図があるはずだ。
まあこの場合は両方なのだが。
つまり筆者はこう提唱しているのだ。
「食人鬼と少女のお話」の少女は食人鬼の提案を受け入れたふりをし、自殺せずに群衆に食人鬼がいることを明かして殺させるべきだ、と。
そして現実でも同様に振舞うべきだ、と。
この結論を導くために筆者は第一見出しで食人鬼が悪だと示し、第二見出しでその対処法を提示したのだ。
決してこの文章は引用文とマンガの内容を説明する文章を除いたら数百字しか残らないのに「食人鬼は悪」と「サンデルを殴るべき」という繋がりの薄いとってつけたような二つの主張を適当に書いたような文章ではないし、
そもそもマイケル・サンデルはトロッコ問題の製作者ではない癖にそいつを殴れとか訳の分からない文章を書いたのでも無い。
よって答えは
③「食人鬼と少女のお話」の「食人鬼」は殴られるべきである。
となる。
但し、この問題はセンター試験で出たら予備校が揃って首をかしげるぐらいには悪問であることは言っておく。
というか元の文章が間違いなく悪文である。
だって、引用文とマンガの内容を説明する文章を除いたら数百字しか残らないのに「食人鬼は悪」と「サンデルを殴るべき」という繋がりの薄いとってつけたような二つの主張を適当に書いたような文章、としても全く矛盾が生じないから。
実際コメント欄を見てもそう解釈している人しかいない。読解力の問題ではなく記述力の問題と見るべきだ。別に文章が冗長になるわけでも読者にかける発破の勢いをあまり削ぐわけでもない範疇で主張を分かりやすくするのは十分可能なはずだ。
論理構造を分かってしまえばこの文章は文体の勢いを削ぐことなく一切無駄の無いものに仕上がってはいる。それでも満場一致で悪文だが。まあこういう文章を書きたくなる気持ちは分かる。
なんというか、先日「お前は絶望的にプログラミングに向いてないから諦めて刺身にタンポポ乗せる仕事でもやってろ|古都こと|note」でバズった人の文章を思い起こさせる。
バカにとって読める唯一の文章は「短い文章」である。無限に自由に解釈し、新しい概念は出てこず、自分の頭の中の思考だけで完結する。つまり「文章を読み取る」必要性が完全に消失するためである。要はただのドラッグである。クスリをキメてハイになるだけで、コミュニケーションを取っているわけではない。相手の理論を理解しているわけではない。ただ自分の思考を相手の短い文章の中に勝手に押し込めて、「相手はこう言ってるぞ!」という満足感を得るだけの、コミュニケーションを放棄した自己完結型の活動だ。
件の文章は悪文なのは精読しなきゃ主張自体が理解できないほどの説明不足だからなのだが食人鬼とトロッコ問題と権力勾配 -コメント欄を見ると上の文章の意味もわかる気がする。
正直自分も トロッコ問題に必要とされない人たち - friedhead'sとか世の中は「違法ではないが多数派にとって道徳的に認められない」問題で満ちている - この夜が明けるまであと百万の祈りみたいな批判記事を書こうとしてなきゃ一生筆者の本当の主張に気づかなかったと思う。結局この記事が非難なのか賞賛なのか擁護なのかは自分でも分かりかねるが。
文章を正しく深読みする、というのはこういうことだと思う。別に今回の文章は理解できなくてもいいレベルだが、そういう文章でも論理構造を紐解けるのが読解力なのだろう。少なくとも「そういう主張をしている可能性もある」という考え方は身につけておくべき…なのかもしれない。