差別には3種類ある。特権階級の為の差別。合理的判断による差別。そして生理的嫌悪感による差別の3種類がある。
これらは当然複合する(というより複合していくことそのものが差別の本質な気がする)が、それぞれの要素が強いものとしては黒人差別、障害者差別、性的少数者差別が挙げられる。
こんな記事を見たので、今回は生理的嫌悪感による差別の合理性について考えたい。特に具体例としてトランスジェンダーについて考えてみる。
といってもそもそも「トランス女性」ってどっちのことだよ…と思うほど無知ではあるけど。(女性になった人の方らしい)
当たり前だが生理的嫌悪感自体にはまったく合理性はない。
だからトランスジェンダーは生理的な、合理的でない理由で差別されるのだ。だからトランスジェンダーは差別されるべきでない…というのは簡単なのだがこれが奇妙な逆説を引き起こす。
トランスジェンダーの差別というのは就職で不利になるとかといった非精神的差別もあるが概ねは奇特の目を向けられたといった精神的な差別がメインだろう。(実際、自分もそういう目で見そうな気がする。)
だが他人から変な物体を見る目で見られて不快になるというのは合理性のない"生理的嫌悪感"なのだ。
だからトランスジェンダーを差別するな、という主張は「生理的嫌悪感を感じたく無いから代わりに別の奴に嫌悪感を感じてもらう」という主張なのだ。
…絶対誤解する人がいると思うので言うがトランスジェンダーを差別すべきだと主張する気は毛頭無い。
ただ、差別を止めろという主張に絶対の根拠は無いと言いたいのだ。一部の人の嫌悪を消す為に他の人の嫌悪を増やす価値があるか否かは嫌悪感の量、質、消しやすさなどによって決まるだろう。
生理的嫌悪感と他人に存在を認められない孤独感・疎外感は別物だという人もいるだろうが、結局質と量の問題だ。努力しだいで軽減できるものであり逆に本人の気の持ちようで増幅することもある、という構造が変わらないのであれば本質的に両者は同じものと言えるだろう。
もちろん「他人から存在を否定される悲しみ」と「理解出来ない心の持ち主が我が物顔で性的パーソナルスペースに入ってくる不快感」では当然後者の方が心の持ちようや合理的思考で感情を制御しやすいのは言うまでもない。反面、質はともかく量が多いのがこの問題の難しいところだが。
平等を守るために差別はやめろ、というのは理由にならない。平等は目的ではなく手段だからだ。平等が好きなら社会主義をやればいい話で、じゃあ平等を主張する人がなぜ社会主義者では無いのかといえば社会主義は失敗するからだ。失敗する、というのが「現実だから」だ。
で、トランスジェンダーがなぜ差別され続けなきゃならないかって生理的に嫌だからであり、「それが現実だから」だ。
「それが現実だから」「それが人間だから」という理由はある程度認められてしまう。これが認められなければ「同性愛者は不快だけどそれは感情論なので差別してはいけない」というのと同じ理由で「人に馬鹿にされるのは不快だけどそれは感情論なので人を馬鹿にしてよい」ということになりかねない。
実際、いじりと称して親しい人間関係の中で他人を馬鹿にするのがコミュニケーションの一環として問題なく成立するのは人を馬鹿にしてはいけないというのが感情論であることを示している。男が女に性的発言をするのもそれをするのにふさわしい人間関係さえ築けていればセクハラではないのである。(そういう関係の男女各3人ずつの6人グループを見かけたことがある。完全に陽キャだった…)
男は上半身裸で公共の場所に居てもいいけど女はダメである理由は「それが人間だから」としか言いようが無い、と言った方が分かりやすいか*1(どうでもいいけど男は外で用を足してもいいけど女は用を足してはいけないのおかしいよな。だって明らかに男性器の方が目立つし男の方が性欲が強い分むしろ見られても責任を問われないのは女性の方だし)
もっと言うと、子供の世話を基本親がしなきゃいけないのもおかしいし、逆に親が死んだら血縁関係のある人にしか遺産が引き継がれないのも人間を平等に扱っていないと言う点で差別だ。これがなぜ認められ、糾弾されないかって「そういうもの」だからだ。(一応、相続税を100%にしろという主張はあるようだが…)
まあ自分の主張を言ってしまうと「トランスジェンダーを差別すべきでは無い」である。
本「競争と公平感」にはこのようなことが書いてある(35P以降,引用ではなくかなりの意訳)。
様々な国で男は競争を好み、女は好まないという実験結果が出た。だが男が子育てをし、男がこき使われる女性優位の社会であるカシ族では女性の方が競争を好むという結果が出た。つまり男の方が本能的に競争を好むが、それは文化的な要因で逆転しうるということが分かった。
つまるところ、多少の本能は文化で打ち消せるということだ。「トランスジェンダーに対する不快感」は文化を変えれば消せるものであるのだ。(そもそもその不快感は本能から来るものなのかという疑問はあるが。)それに対し、単なる孤独感や疎外感だけならともかく「他人から存在を否定される悲しみ」は本能的に消せないものだと思う。
そして重要なことに文化は変えるのが大変である。逆に言えば一度差別が無いように文化を変えてしまえば恒久的に差別は無くなる。
この手の一回コストを支払えば無限に使い続けられるリソースというのは早めに解放するのが定跡だ。
だから差別すべきではない…と言いたいのだがこの意見は男性目線であって正直当てにはならない。*2男子トイレに女が入ってきてもどうでもいいが、女子トイレに男が入ってきたら大騒ぎである。結局何をどうしようが哲学的な理由で俺は女性の感性が理解できないのだ。こればかりはどうしようもない。
もしかしたら女子トイレにトランス女性が入って来るというのは裸を見られるのと同じぐらい恥ずかしく屈辱的なのかもしれないし、いや、そもそも俺は男なので裸を異性に見られるのが屈辱的という感性も理解できないのだが…。
一般的な女性のトランス女性に対する感性を精神的なものではなく物理的なものに置換したらトリメチルアミン尿症(体臭が非常に臭くなる病気)の人みたくなるのだろうか?それならば文化とか関係なく本能でトランス女性を受け入れられないというのも理解の及ぶ範疇ではある。
トリメチルアミン尿症患者をそれを理由に公共の場所に(特に電車に)出入禁止してよいかや会社が採用を拒否してはいけないか…というのと合わせて考えて見るべきだろう。
もし精神的ダメージを与えるトランスジェンダーと物理的ダメージを与えるトリメチルアミン尿症で結論が異なるのならその理由は明確にするべきだろう。