反社会的思考のススメ

【反社会的】[形容動詞]社会の道徳や規範から大きく外れているさま。 道徳、常識、法律、そういうものを超えた考え方を勧めたい。…勧めたかった。多分2019年7月は真面目に更新できそうです。

福引は平等と見せかけて実は後から引いた方が得であることの証明

前回の記事(アナザーエデンはユーザーのために確率操作してくれたと言うのに。)を書いていて福引について思うところがいくつかあったので書くことにした。


福引は先に引いたほうが得か後に引いたほうが得かということを正しく理解していない人は世間には多くいるらしい。


本「確率的発想法」には筆者の体験として次のように書いている。

筆者がときどき食べにいく鮨屋の板前さんは、筆者がギャンブルの知識にうといのを見て不憫に思ったのか、次のような「極秘情報」を教えてくれました。「お客さん、競馬の1レース目で9の数字が絡んだときは、一日中9の番号に張るといいですよ」。またパチンコ屋で、隣に座った年配の女性が「秘訣」を教えてくれたこともありました。「あんたね、下手そうだから教えてあげるわよ。リーチがかかったらレバーを叩くといいのよ」。冗談かと思って観察していると、その人はたしかにリーチがかかるたびにレバーを叩いておりました。

(30P なお念のため書いておくと筆者は東大数学科卒業でありギャンブルの知識に詳しい方であること、さらにその上で上記の理屈は一概に笑い飛ばせるものでは無いとも言っていることを併記しておく)

ということが書いてある。正直自分の人生の中でこのようなことを言う人は見た事がないが、ネット上に、即ち世間一般にそう言う人が多いのも知っている。

確かに確率論で考えればいつ引いても確率は変わらない。以下で説明しよう。

 

 

 

簡単のため3人でクジを引く場合を考えよう。クジが3枚有りその内1つが当たりである。
(※この記事はここが本題ではない為かなり簡略化した説明をしている。これでも納得できない人には別の方の記事を見るかここのコメント欄にお願いします。そういう人と話をしてみたいので。また、既にくじ引きが平等だと知ってる人はこの段落を見ても何の意味も無いので飛ばしてもよろしい。)


一人目が当たる確率は当然1/3である。これに異論は無いだろう。…無いよな?流石に無いよな?

…まず「先に引いた方が得だと思ってる人」は自分がクジを引く前に当たりくじが無くなる事が気に入らないだけで確率という考え方をしていないだけだと思うので無視する。

確率の言葉を使って説明しても納得してもらえない気がする。とりあえずそういう方は確率という考え方を認めてみてはいかがだろうか(煽りに聞こえる方が居たらスミマセン でも私にとってくじ引きは感覚で「平等だろ」という感覚だったので、感覚で「不平等だろ」という人の価値観や生まれ育った環境が想像できないのです)。

 

そして「後に引いた方が得だと思ってる人」。


そういう人は二人目が確率1/2だと思っているのだろう。確率という考え方は持っているのだろうが時制という観点が不足している。


確かに実際に一人目が引いて外れてしまえば
一人目が当たる確率は0
二人目が当たる確率は1/2になる。


しかしこれは一人目が当たる可能性を考慮していない。
あり得る全ての可能性を網羅してこそ確率という考え方には意味があるのだ。

二人目が引く瞬間での確率のみ考えるのは時制が違う。誰もクジを引いていない時点での確率が重要なのだ。


それ以前に二人目が当たる確率は1/2なら三人目は確率1/1になるのだろうか。3人目は100%当たりくじが当たるのだろうか。そんなわけはない。


なぜなら一人目が当たれば二人目は当たらないし一人目か二人目が当たれば三人目は当たらないからだ。


正しくは
二人目が当たる確率は 2/3(一人目が外れる確率) × 1/2(一人目が外した状態で二人目が当たる確率) = 1/3
三人目が当たる確率は 2/3(一人目が外れる確率) × 1/2(一人目が外した状態で二人目も外れる確率) = 1/3
よって平等である。

 

 


以上のことを踏まえた上、舌の根も乾かぬうちに手の平を返すようで悪いが福引は後から引いた方が得というのが私の結論である。

 
福引というのは店側が客寄せをする為に行うものだ。当然良い商品が残っているほど集客力も高くなる。テレビやカメラが貰えるとなれば「ここで買い物をしようかしら〜」とマダムたちが寄って集るのだ。

 
だから店は当たりが終盤まで残っていてほしい。その為に始めは当たりを入れずに後から当たりを入れる動機が店側にはある。客がガラガラ(抽選器)にどの色の玉がいくら入っているかなんてわからないのだから不正はし放題である。もちろん当たりが全く出ないと初めから当たりが入ってなかったんだと思われてしまうが、福引の終盤に当たってしまえば不正と疑われる筋合いは無くなる。

 


そして極めて重要なことだが、店側が実際に不正をしているかどうかは関係無く後から引いた方が有利になる。なぜなら店側が不正をしているなら後から引いた方が得な上に、不正をしていなくても後から引いても問題が無いからだ。つまり得をするかプラマイゼロかの二択。絶対に損しない選択肢だからである。99%不正をしていなくとも残りの1%があるなら後から引くべきだし、100%不正をしていないと分かるのは運営側だけだ。可能性が0では無いと言うだけで後から引く理由になる。逆に先にクジを引くのは絶対得はしない選択肢である。

 

 

 

この「元が平等だから可能性が理由になる」と言うのは自分で言うのもなんだが非常に面白い考え方だ。 

 


例えばテレビで「バナナがダイエットに良い」と吹聴されると全国のスーパーからバナナが消失する。ネット上ではこの手の安直にテレビを信じる人というのは最も馬鹿にされる人種の筆頭だ。

だがしかし、この行動は決して非合理ではない。だってそうだろう。テレビの言ってることが本当ならバナナを買い溜めして正解だし、テレビが嘘を言ってたとしても買い溜めしたバナナを食べて「美味しいわ」と言ってそれで済む話。

どうせバナナでもりんごでも何を買うかは気分(=元が平等)なのだから本当の可能性が0では無いというだけでバナナを買う理由になる。

これが「元が平等だから可能性が理由になる」という考え方だ。

バナナ業界の陰謀なんぞ彼らにとって知ったこっちゃ無い。(なお実際にバナナがダイエットに効くかは知らないしバナナ業界なるものも知らない)

 


逆に「可能性があるから買わない」と言うパターンもある。福島の米がそうだ。どの米でもいいけど福島の米は放射線が有りそうだから買わないというのは合理的な考え方だ。

無論調べれば放射線検査を通過した米だけが出荷されているというのは分かる。だがその「調べる」が非合理なのだ。だって調べなくとも買わなきゃ安全なんだから。調べる手間(=コスト)を省ける以上はそれは合理的選択肢だ。

 


そうであるからテレビを信じる生き方は「これ以上合理的になる合理性を持たない」という意味での合理性を持つのである。(この辺りは拙作「全ての人間は非合理的であることの証明」も参照)

 


少々脱線したが現実的に考えれば福引は後から引いた方が得だ。この意見を覆すには店が当たりくじを序盤で当たるように細工する動機があることを示さなければならない。
確率論によって得られた「福引は平等」という結論が期待値という確率論的概念によって否定されるのは皮肉と言う他ない。

 


…ただ「現実的に」と言う話をするのなら後から引いても数円程度しか得をしないだろうとは言っておくが。