大弟です。ちょっと中間テストが忙しくて更新できてませんでした。ごめん。
まあそれはさておいて、以下本編。
倫理的理由によって肉を食べないベジタリアン・ヴィーガンに対して「植物も命だ平等に扱え」「植物にも命の価値はあるんだよ」というの、完全に自爆なのでめっちゃ好きなんですけど、これをなんとかして正当化しようと努力してみると面白かったので書き連ねてみる。
「植物も命だ平等に扱え」が間違っている理由
一応軽く解説するわ。
ヴィーガンは「肉を食べるのは命を奪う行為だ。だから肉を食べるのは倫理的に問題がある」と主張する。
それに対して一部の人々は「植物も命だ平等に扱え」と反論するが、これは論外の意見だ。
なぜなら牛肉を食う人は食べられるために育てられる牛が食う草の命も間接的に奪っている。
肉食主義者は草食主義者より植物の命を奪っているのだ。
だから肉食主義者は「植物の命の価値なんか無い」と言うべきであり間違っても植物の命の価値なんざ認めてはならないのだ。
しかしながら植物にも命の価値はあると言って憚らない肉食主義者は多い。
論理的に考えれば植物の命の価値を認めてはならないのに、である。
これは何か字面から読み取れる以上の裏の意図があるに違いない。きっと。
というわけで考えてみよう。
説①牛が食う植物の命の責任は牛にある
牛肉を食う人は食べられるために育てられる牛が食う草の命も間接的に奪っている。
これはあくまで「間接的に」である。だから植物が殺されたことの倫理的責任は人間ではなく牛にある可能性がある。
植物が殺されたのは牛のせいであり、牛肉を食べた人間のせいでは無い。
…と考えれば「植物も命だ平等に扱え」は正当化される。
これを認めるということは
・倫理的責任は手を汚した実行犯にのみ生じる。*1
・人だけでなく牛などの生物も倫理的責任を背負う。
を認めなければならない。
この価値観の問題点としては直接手を汚さなければ何をやってもいいこと、脅されてやったことでもその責任を背負う必要があることだろう。
実行犯のみが責任を負うってのはそういうこと。
しかし現行の法律に反しているとはいえこれ自体は矛盾ではない。
別に脅されようが実行した人が悪い!手を汚さなきゃいい!という考え自体はありだ。
脅しに屈しないというのは美徳だし、やや過激ではあるが直感に大きく反するケースはあまりない。
…はずだったのだが、「人だけでなく牛などの生物も倫理的責任を背負う」場合だと途端にクソなケースが急増する。
世界最古の推理小説のトリックは「訓練した動物に殺させる」というキテレツなトリックだと聞いたことがあるが、この説の価値観に照らし合わせるとこうなる。
牛が殺人罪に問われる
いいのかそれで。
もちろん牛が殺人罪に問われる場合、人は殺人罪に問われない。殺人教唆とかいう罪もあるにはあるが知らん。 すべての責任を牛に押し付けることができる。
嫌いな奴はとりあえず牛に殺させておけば倫理的責任を一切背負わずにこの世から消し去ることができる。素晴らしいね。却下。
説②生物の命の価値はマイナス説
たまに「植物にも命の価値はあるんだよ」という方がいるのだが、
これは「植物の命の価値は0ではない」とも読める。
つまり。
実は植物の命の価値はマイナスだったんだよ!!!
な、なんだってー!!! >ΩΩΩ
…いやはや案外バカにできない解釈だ。
思いの外矛盾しない。
そもそも植物の命の価値をプラスにしたことから自爆したのだからマイナスにしてしまえばむしろ肉はどんどん食べるべきって結論になるのは妥当。
植物の命の価値がマイナスなら人間の命の価値もマイナスになって人を殺すのが是認されるようにも見えるが、そこは別の価値観軸(例えば幸福量だの知能が高いとどうだの)を入れればフォローが聞く範疇だ。
まあ最大の問題点として
解釈の仕方が無理筋すぎるだろ
って話なんだが。
*1:実行犯が倫理的責任の9割ほどを背負うのは間違いない。まあ実質実行犯のみが背負うとして問題ないだろう。