さて、今日は「努力」とは何かを厳密に再定義したい。
親・学校・社会など、この世はあらゆる場面で努力を要求される。
しかし努力とは何かを教えてくれる人はいない。
一体「努力」とはなんだろうか?
目次
努力の本質とは
まず、努力とはどういう性質のものかを確かめる。
「努力は必ず報われる」という有名な言葉がある。
この言葉には2通りの解釈がある。「努力すれば目標は必ず達成できる」という考えと「努力した経験は人生においていつか役に立つ」という考えである。
前者の意味で本気で言ってる人は居ないとは思いたい。誰が言ったか知らないし根性論の根底にもこの言葉が有るようにも思えるがこんな言葉が正しいわけないだろう。
反例を挙げるまでもなく、一般的な定義に照らし合わせて明らかに間違いだ。百歩譲って社会人になるまではこれを認めるとしても明確な正解のない社会人以降においてこれは認められない。いくら努力しても失敗することはある。まあ自分は社会人ではないのでこの辺は自分が語っていい部分ではないような気もするが…
だがしかし、この「努力返報論」を強引に認める方法がある。努力が必ず報われるのではなく、報われることが努力なのである、とすることだ。つまり「報われない努力は努力ではない」とする考え方である。これは努力の本質を「報われること」と定義することになる。
努力の一般的な定義は「損して得取れ」である。
後者の考え方「努力した経験は人生においていつか役に立つ」はそれを如実に表している。今苦労して将来報われるということだ。
だからこそ努力の本質が損することなのか得することなのかが問題なのである。
「報われない努力は努力ではない説」vs「努力とは苦労すること説」
努力の本質を「得すること」とするならば「報われない努力は努力ではない」ということになる。
逆に「損すること」とするならば「努力とは苦労すること」となる。
つまり努力は目的なのか手段なのかである。
だが努力とは目標に向かって苦労することである。であるならば努力というのは目的ありきであって、つまり手段だ。何か目標を達成するための手段が努力であって、努力することは目的ではない。
だから自分はどちらかと言えば「報われない努力は努力ではない」説を支持する。ただこれはやや直感に反する面がある。
報われなければ努力ではないというのはあまりに結果主義であり、残酷すぎるのだ。
そこには2つの観点が欠け落ちている。
抜け落ちた二つの観点
①不確定要素
人生には必ず不確定要素がある。なぜなら人は全ての情報を得ることはできないからだ。だから行動を起こす前には結果は概ねの期待値・平均値を求めることしかできない。
②人生の目的
努力とは目標に向かって苦労することである。「目標に向かう」とは人生の目的を達成しようとすることであり、つまり幸福になろうとすることである。であるなら努力とは今現在の幸福を捨てて将来の幸福を得る行為である。
当たり前のことではあるが努力というのは苦労した分以上に報われなければ意味がない。100苦労して10しか報われないならばそんな努力をする意味がないのである。
これらの要素を入れることで極めて滑らかに努力を定義できるようになるのである。
結論
ずばり、努力の定義とは「幸福量の期待値をより増やす行為」である。
この定義の優れているところは努力の本質である「損して」「得取れ」の両方を一文でそこに含めることができる点である。そして成功する公算の高い行為を正当化することで結果主義の排除。さらにその文の簡潔さ。完璧である。
唯一の欠点としては今得して後に損する行為も努力と呼ぶことになる点であるが現実的にそんな行為は考えにくい。
今得する行動とは後先を考えずに今だけを重要視した行動である。ゲームをする。無意味に昼寝する。ネットサーフィンをする。そういう今しか考えない行動が勉強や読書といった行動より役に立つとは思えない。何故なら「今」は一瞬だが「未来」は数十年と続くからである。一瞬しか幸福になれない行動より今後数十年の間幸福になれる行動の方が有利に決まっている。死ぬ直前だったりして「今」の幸福の方が良いのなら自分は別にそれを努力と呼んだって構わないと思っている。
また、重要なのが勉強をすることを今の幸福とする人にとっても勉強が努力となる点である。つまり努力を努力と思わない人の存在を認めるということだ。苦労せずに勉強ができる人は苦労せずに努力ができるのだ。
その逆に役に立つことであればどんな行動でも努力になる。プロゲーマーがゲームをするのは努力だし、プロブロガーがツイッターをするのは努力だし、プロスポーツ選手がスポーツをするのは努力である。
「報われない努力は努力ではない」も「努力とは苦労すること」も間違っている。
努力は「幸福量の期待値をより増やす行為」だ。