反社会的思考のススメ

【反社会的】[形容動詞]社会の道徳や規範から大きく外れているさま。 道徳、常識、法律、そういうものを超えた考え方を勧めたい。…勧めたかった。多分2019年7月は真面目に更新できそうです。

人の責任は代替可能性と回避可能性で測られる(いじめはいじめた側が悪い理由)

人が行った事には責任が生じるが、その責任の重さは「その人が存在しない時との比較」で決まる。即ち「他の人なら何とかなったと言う度合い」に比例する。何か誤った判断をしてもそれが誰でもやるような失敗なら責任はないが、誰もやらないような失敗ならその人の責任という事になる。

 

この「他の人ならなんとかなったという度合い」を考えるのに必要なのが「代替可能性」「回避可能性」である。

 

ここではいじめで考える。A氏がB氏をいじめていたとする。この時いじめの責任がだれにあるかを考える。

「代替可能性」とはその人が(その問題の中で)別の人に取って代わられるかという事である。もしA氏が存在しなかったらいじめは起こらないと考えられるのでA氏の代替可能性は低い。もしB氏が存在しなくても、A氏が別のC氏をいじめていた可能性は十分考えられるのでB氏の代替可能性は低くない。

「回避可能性」とはその人が問題の発生を回避しやすいか、という事である。A氏がいじめを回避するためにはただいじめるのを止めるだけで良いのに対し、B氏がいじめを止めるなら引きこもったり引っ越したりする必要がある。つまりA氏の回避可能性が高く、A氏の回避可能性が低い。

代替可能性が低く(代わりが居ない)、回避可能性が高い(問題を容易に回避できた立場にある)ほど責任が重いと言えるだろう。

 

ここでの回避可能性には問題の発生を予測できるかどうかという観点も入る。

例えば全席喫煙可能と書いてあるファミレスに入ったのにタバコの煙に文句をいうのはお門違いだ。しかし、別のファミレスで禁煙席に座ったのに喫煙席が近くて流れてくるタバコの煙をうざったく思うのは無理がないだろう。

ここでの「無理がない」というのがポイントで、どの程度までを無理がない行為と考えるかは人それぞれであるので、基準点が中央値(=「常識」)になってしまう。常識的に考えてその人の行為に無理があるかないかが問題になる。

そして常識というのは人それぞれで違うものなのである。常識とはcommon sense=共通の感覚 という意味であるにも関わらず人によって常識だと思う範囲が異なる。ここのせいで責任問題というのは非常に曖昧になってしまうのである。(特に社長などの特別な地位にある者の責任は!)

 

また、仮に責任があったとしてもその責任を果たすべきかは別の話である。つまり何か失敗をしてもその責任を背負わなくて済む方が挑戦意欲の刺激に繋がるなどのメリットもある。

 

その辺りを考慮して責任問題を考えるべきであり、誤ったことをしたから責任を取れというのは短絡的で浅慮であると言える。